KyuyaNakagawa column

映画作家・中川究矢によるコラムや告知など。中川究矢公式websiteは http://paprod.wp.xdomain.jp/

時々コラム 第1回「消化仕切れない情報と消化不良な感情と向き合っていかなきゃいけない世界」

一体どこまでが真実の情報なのか。簡易的に収集出来る情報のその先は不透明かつ釈然としないまま消化不良な感情を抱えて生きなければならない事が日常になりつつある。

インターネット。

一昔前に比べれば、非常に簡易的に情報を収集出来るし、何かの事件があった時にパソコンの前に齧り付いていればマスコミや政府関係者、警察関係者よりも一個人が早く重要な情報にアクセスしてしまうことも日常的にあり得る世界になった。

それが良い事もあるだろう。ある程度情報の透明性が進んだ部分もある。

しかし、ある程度まで情報を安易に出し入れ出来る様になった御陰で“その先”の情報、例えば殺人事件だったら犯人の本当の動機等、アクセスし切れない情報の部分が投げ出された形になった状態が個人にとっての日常になってしまった。多くの情報にアクセス出来る様になった反面、いつまでも結論が出し辛い状態が永続的に続いているような社会になってしまった。

最近で言えばISILに殺害された(であろう)後藤健二さんと湯川遥菜さんの人質事件然り、ルフトハンザ航空のパイロットが起こした(であろう)事故然り。

完全な答えや今後への指針が明確に示されないまま、情報だけが与えられ続ける。インターネットによってアクセスが安易になった分“その先”の情報の不透明さがより際立つ形になっているように思う。

最近になって90年代オウム事件は全容が解明されつつある。麻原自身が口を開かなければ本当の全容解明が出来ないだろうけど、少なくとも多くの証言者がいる。こういった場合、個人が受け取ってその事件をどう消化して行けばいいか、どう感じればいいか、少なくとも消化可能な情報は与えられている。

しかしながら、例えば後藤さんと湯川さんの事件に関して、かなり細かい情報もあるにはあるが完全にはっきりしていないし、政府がどのように交渉に失敗しているのか等、裁判で細かく検証する事は不可能なのである。検証で細かく結論を出す事が出来ないと似たような問題に直面した時により高度な対応をする、という“成長”を導き出せないのである。政府も国民も成長する機会を逸してしまっているのだ。

この未消化な部分の消化作業を評論家や芸術家が請け負っている部分は昔も今もあるにはある。グリコ森永事件、三億円事件、未消化な事件に対して素晴らしいレベルの時代考証を絡めた文献が存在する。最近なら一家乗っ取りして大量に殺害したとされる尼崎事件なども。

しかし、これらある程度考証可能な事件や殺人事件の被告は検証されるのに対して、先に述べたような後藤さんと湯川さんの事件、様々な事例に対する政府の対応や警察の対応、教育委員会の対応、不透明な裁判所の判例、不透明な情報の事件、は途中までしか検証されない(出来ない)。個人にとっては中途半端な情報で終ってその先を検証する事が出来ない。

恐らく、日本の政治の中枢とアメリカ大統領とFBIのトップ等から自由に情報を入手する事が出来ない限りはこの未消化な状態がクリアになる事はないだろう。

インターネットは一見、個人にとっての武器を増やしたようでいて、情報の核の部分にアクセス仕切れない精神的不健全さ、次々起こる事件、事故、様々な消化し切れない多くの情報によってもたらされる消化不良な感情と向き合っていかなければいけない日常を生み出してしまう事になった。

インターネットという一見自由でグローバルなどこでもドアは逆に個人を情報の鳥かごの中に閉じ込めて未消化な異物を生み出させ続けているのかも知れない。

特定秘密保護法案の施行はそれを一層加速させてしまう恐れがある。この世界とどう向き合えばいいのだろうか?それを探す為にまたインターネットにアクセスしてしまうのである。答えのないループ。溜り続ける異物。無限の情報。どこへ行こうか?どこへ行くべきか?アノニマスになるか、アメリカ大統領を目指すべきか?別にそんな事を望んでいる人はいないだろう。ただ幸せに暮らしたいだけなのである。