KyuyaNakagawa column

映画作家・中川究矢によるコラムや告知など。中川究矢公式websiteは http://paprod.wp.xdomain.jp/

時々コラム 第2回 「せっちゃんのこと」

昼に起きて雑用をこなしてから、あまり食欲もないし食費を節約したいから久しぶりに食パンを買って来て焼いて食べた。
目玉焼きを乗せてラピュタパンにしようと思ったのだけど、目玉焼きを焼くのが面倒臭くなって冷蔵庫の中にあった納豆を食パンの上に乗せて食べた。それでふと“せっちゃん”の事を思い出した。
せっちゃんに会ったのは僕が19歳の時。

長野県の蓼科高原にある温泉旅館で働いていた時だった。せっちゃんは青森から出稼ぎに来ている従業員食堂(通称従食)のおばちゃんだった。出稼ぎと言ってももう70歳くらいだった。僕は関西の派遣会社から派遣されて7月から11月末までの5ヶ月間その旅館で働いていた。その旅館では実に様々な人が働いていた。ブラジルから出稼ぎに来ている日系ブラジル人の人達。1人か2人は完全なブラジル人もいた。彼らは客室清掃係だった。東京の派遣会社から来ているスタッフ。彼女らは主に調理補助。地元のパートのおばちゃん達。彼女らは仲居さん。それから主に地元出身の旅館の社員さんたち(フロント、事務、板前、営業、予約係等)。
温泉旅館と言っても多い日には観光バスが10台も来るような巨大旅館だった。会社も株式会社だった。僕はそこで朝は7時から売店係か夏の間だけ特設で設置された朝市(と言っても昼もやっていた)売り場係。10時から15時の間は朝市の店番か昼間のフロントのお留守番係。15時から18時頃までは駐車場係。夕食休憩を挟んで20時からはカラオケスナック店かラーメン店と一日に凡そ5つの仕事をこなしていた。すべての仕事が終わるのは24時頃。お客さんに「お兄ちゃんどこにでもいるなあ」と言われた事も1度や2度ではなかった。さらに日によっては調理場からヘルプの声が掛かれば調理補助、客室清掃係に風邪が流行って人手が足りなくなったら客室清掃のお手伝いをした事もあった。一番忙しかった8月にはちょうど400時間働いた。1000円の時給で残業で時給がプラスになった分から税金が引かれて収入がちょうど40万円だった。中川はなんで倒れないのか、と驚かれたりもした。
旅館は高原の中にあって最初の信号機のある交差点までは車で15分も山を降りないといけなかった。その交差点の角にスーパーがあり、その先のコンビニまではさらに車で5分かかった。なのでご飯は休みの日に食料品でも買い込まない限り従食で食べるしかなかった。
とにかくそんな旅館でせっちゃんは僕らの為に毎日一人で食事を作り続けていたのだ。例え休みであろうが僕らはせっちゃんの料理を食べに行っていた。周りに食べる所がないので旅館の近くで寮生活しているスタッフにとってはせっちゃんの従食が頼りなのだ。せっちゃんの料理は美味しかった。特に毎週日曜日の夜のカレーはみんな楽しみにしていた。大きな旅館だったけれど従食は10畳あるかないかの小さな部屋だった。食べ終わった人は自分で使った食器を洗って布巾で拭いて棚に戻すシステムになっていたのでせっちゃんはなんとか一人でそこを切り盛りする事が出来たのだ。たまに客室清掃係の人達がみんなでご飯を食べているところに八合わせると従食がいっぱいなので休憩時間をずらしたりもした。休憩時間をずらしても仕事は絶え間なくあったのでいくらでも時間を潰す事が出来た。せっちゃんが作ってくれた料理で思い出すのはカレー、麻婆那須、ハンバーグ、山菜の天ぷら、肉野菜炒め…色々あった気がするけれどもう細かいところは忘れてしまった。何せ18年前だ。せっちゃんは基本的にいつもご機嫌だった。たまに遅めに従食に食べに行くと仕事が終ってお酒を飲んでいるせっちゃんが酔っぱらって「中川くんも彼女さ作ってここさ住んじまったらええさ」と青森弁で僕に絡んで来た。僕らのように派遣されて来るアルバイトは入れ替わりが激しかったので(大抵1ヶ月から3ヶ月程度)僕のように5ケ月もいたのは長い方だった。いつしか僕はその駐車場係を中心に何でも屋の役割を果たしていた関西からのメンバー(5人程度)のシフトフォーメーションを若干19歳で動かす事になり頭と体を毎日フル回転させていた。新しく入って来た人は必ずせっちゃんに丁重に紹介した。紹介しないで従食を食べている人がいるとせっちゃんはすごく怒った。「せっちゃんこれ美味しいよ」「いつもありがとう」僕らが話しかけるとせっちゃんは嬉しそうに笑った。せっちゃんは僕の見ている限り絶え間なく働いていた。孫の話を聞いたような気がするけどうろ覚えだ。息子さん達は地元でりんご農家をやっていて一度林檎の収穫の為にせっちゃんが10日間程いなくなってしまった時があった。いなくなる前、せっちゃんの穴を誰が埋めるのか旅館全体で問題になったけれど、人事担当の専務は「みんなで何とかしよう」と言うすごくいい加減な方針でその10日間を乗り切ってしまった。せっちゃんがいない間の食事は辛かった。板前さんたちが料理の提供が落ち着いてから僕らの食事を作ってくれていたので早い時間に従食に行くとほとんど食べ物がなかった。やっと出て来ても一品か二品が限界だった。料理が作られて来るのを従食で待っている時や一品のおかずでご飯を食べている時、僕らはせっちゃんのありがたみを痛感していた。

しかし、せっちゃんがいてもいなくても変わらない事もあった。朝食はほぼいつも通りだった。朝食にはせっちゃんは味噌汁くらいしか作らなかった。みんなが朝の仕事を終えて朝食を食べる頃にはせっちゃんは昼ご飯以降の用意をしていたし、朝食まで本格的に作ると大変だったのだ。従食にはいつも置かれている食べ物があった。納豆、生卵、海苔、野沢菜、茹でてある蕎麦。納豆は朝以外は置かれていなかったけれど、食べようと思えば冷蔵庫から出していつでも食べる事が出来た。朝食はそのセットにせっちゃんが作ってくれた味噌汁、食パン、ジャム、バナナも置いてあった。
そこそこちゃんとしているようにも思えるけれど、毎日となると朝は代わり映えのしない印象だった。最初はご飯に納豆と卵やなんかで食べていたのだけれど、毎日食べていると違う事を試してみたくなって来る。蕎麦に卵と海苔を組み合わせたり、前日の残りのカレーがあったらカレー蕎麦にしてみたり、食パンにバナナを乗せてみたり、野沢菜を胡麻油で炒めておかずにしてみたり(これが意外とイケる)。そんな中で熟練の従業員たちはよく食パンに納豆を乗せて食べていた。最初見た時、僕や他のアルバイトメンバーは信じられないというリアクションをしていた。おいしいんですか?と聞くとそっけない感じで、意外とイケるよと返答が返って来る。
派遣されてから最初の夏の間は僕はそうやって食べる事はなかった。というより京都出身なので納豆自体をそれほど食べる習慣がなかったのだ。しかし、朝食のメニューは限られている。せっちゃんは毎日昼夜ちゃんと作ってくれているので朝までそれ以上の贅沢は求められない。夏が終わり、最初に来たメンバーが関西に戻って行き、9月になって新しいメンバーがやって来た頃、僕は徐々にその食パンの上に納豆を乗せて食べるやり方をして食べるようになっていた。
恐らく余程理にかなっているのだと思う。毎日働いている人が自然とそうして食べるようになるのだから。僕はご飯が好きだったけれど胃腸が弱いせいもあってか、朝からご飯をしっかり食べるのはあまり体が受け付けなかった。その点食パンはなんとなく軽くて食べ易かった。食パンを食べて味噌汁を飲んで野沢菜を食べて…タンパク源が足りない。納豆を食パンに乗せると色々ちょうど良かったのだろう。それを特別おいしいと思ったことはなかった気がする。でも、いつしかそうするのが当然のように僕も納豆食パンを食べるようになっていた。今度は僕が新しく来たメンバーから怪訝な目で見られるようになった。「おいしいんですか?」「なんかね、良いんだよ」納豆食パンを食べるようになった頃には僕はすっかり旅館に馴染んでいたのだ。「社員になっちゃえば」と良く板前さんや客室清掃係のおじさん達に絡かわれた。
そんなこんなで久しぶりに納豆食パンを食べていたらせっちゃんの笑顔と豪快な青森弁を思い出したのだ。
青森でりんごの収穫を終えたせっちゃんは大量のリンゴと共に旅館に戻って来てまた僕らにおいしい食事を作ってくれた。12月の頭、関西に戻る事になった僕はせっちゃんのところにもお別れの挨拶をしに行った。また戻っておいで。な。元気でな。うんうん。両手でしっかり何度も握手をした。僕もせっちゃんも泣きそうだった。思えば高校を卒業したての青臭い19歳のガキんちょだった僕にとって、新しくやって来るメンバーをせっちゃんに紹介出来る事は1つの誇りだったのだ。せっちゃんと仲良くしていればこの旅館では上手くやって行けるから…そんな気持ちで。
せっちゃんは今生きていたら90歳近くになっている筈だ。久しぶりにあの旅館に行ってみたい。せっちゃんはもういないだろうけれど。